Rewrite.AI Home About Characters Episode Downdolads ep.2 "Irregular"

―前―

 

 

晴天の、なかなかに清々しい朝だった。

ただ1つの点を除いては。

 

「うわぁ……酷い顔」

起き抜け一番、鏡の前に立って、思わずそう口に出して呻く。

こんなに見事な目の下のクマは何年ぶりだろうか。不規則気味な生活を強いられる仕事ではあるが、そんな中でも、健康には十分気をつけているつもりだ。しかし、昨晩は少々飲み過ぎた。閉店間際に来た常連客の愚痴に、つい付き合ってしまったのだ。

「お化粧で隠せる人はいいわねぇ……」

そう呟くと、彼女……いや「彼」は、やっと鏡の前を離れた。

彼の部屋は、彼が大好きな物で溢れていた。アンティークの時計、レースのベッドカバー、代々受け継いできた上品な飾り棚―――彼は、美しい物が大好きだ。しかし、自らそうした美しい物を纏うことはしない。彼の服装はいつもシンプルで、華美な部分がほとんどない。自らもカウンターに立つ酒場のオーナーは、力仕事も多い。ヒラヒラキラキラでは務まらないのだ。

ひとまず部屋着であるリネンのシャツに着替え、自室を出た彼は、共用空間であるダイニングへと向かった。

「グッモーニン、"ニケ"。ねえ、今朝の朝食―――」

そう声をかけたが、直後、ダイニングが真っ暗であることに気づき、次の言葉を飲み込んだ。

「……"ニケ"?」

普段なら、この時間にはとっくに起きている筈なのに、姿が見えない。早朝に出かけたのだろうか、とも思ったが、それでもカーテン位は開けてから行く筈なので、それもないだろう。ということは。

―――まあったく……またあの子達は。

チッ、と舌打ちした彼は、まずはダイニングのカーテンを開け、水槽の中で群れるグッピー達に朝ご飯をやった。そしてキッチンに向かい、おもむろにフライパンとフライ返しを手に取ると、"ニケ"の部屋へと向かった。

"ニケ"の部屋は、ダイニングを挟んで彼の部屋とは反対側にある。ルームシェアを前提とした典型的な間取りだ。ドアには木の板を雑に彫ったネームプレートがかかっているが、そこにもやはり、本当の名前ではなく"ニケ"とあった。

一応の礼儀として、まずはドアをノックする。コンコン、と2回。しかし、ドアの向こうから返事はなさそうだ。仕方なく、彼はドアを開けた。そしてそこに、予想通りの光景を見つけ、大きくため息をついた。

「……こんなことだろうと思ったわよ、全くもう」

ツカツカとベッド脇に歩み寄ると、彼は窓に下がるブラインドの紐を引いた。

相手に背を向けるように仲良く左右を向いて並んで転がる、人影2体。どちらも、部屋が明るくなっても、全く動く気配がない。眉を上げた彼は、2人の頭上にフライパンを掲げると、フライ返しで底をガンガン叩いた。

「はいはいはい、朝ですよー!」

途端、2人揃って、耳を押さえて体を縮めた。双子かお前ら、と彼らしからぬ口調で心の中で突っ込みを入れたが、フライパンを叩く手は決して緩めなかった。

「ほらほら、2人とも!さっさと起きる!!」

「……うー……」

呻き声と共に、2人とも、じわじわと体を起こし始める。先になんとか会話が可能なレベルになったのは、"ニケ"の方だった。

「……モーニン、"グラディス"……」

「何、しれっと挨拶してるの!全く……何度同じこと言わせるの。アタシがあんたの親だったら、とっくの昔に流血沙汰よ」

「……んなもん引き合いに出されても……」

「コラ!あんたもよ、ヴィンセント」

ようやく起き上がった"Z"の頭を、"グラディス"は容赦なくフライパンで叩いた。カーン、と小気味良い音が響き、"Z"の体はグラリと傾いた。

「ここはあんたの家じゃないし、"ニケ"はあんたの抱き枕じゃないのよ。いくら眠いからって、勝手に上がり込んで、勝手に寝ないで頂戴!」

「……」

傾いた"Z"に押されて、"ニケ"もまた傾く。そのまま、両者とも、またばったりとベッドに倒れ込んだ。

「こらああああぁ!いい加減にしなさい、ヴィンセントっ!!」

再び、ガンガンとフライパンを叩く"グラディス"だったが、その音に被さるように、ドアチャイムが鳴った。

こんな朝早い時間から、来客だろうか。ああもう、と悪態をつきつつ、玄関の方と2人の方を何度か見比べた"グラディス"は、結局フライパンを手にしたまま踵を返した。

―――仲良く寝かせといてやりたいのは、やまやまなんだけどねぇ……。

肩越しにチラリと背後を伺い、小さくため息をつく。

きっと一緒に生活していた頃も、ああして寄り添って眠っていたのだろう。とはいえ、2人共もう子供ではないし、ルールはルールだ。心を鬼にしろ、と"グラディス"は自分に言い聞かせた。

"ニケ"の部屋から玄関に向かう間に、またドアチャイムが鳴った。

「はいはいはい」

そう急かしなさんな、と思いながらカメラの映像を確認すると、そこには見慣れた顔が映っていた。しかも、この状況では非常にありがたい助っ人だ。表情を明るくした"グラディス"は、即、玄関のドアを開けた。

「おやまあ、随分早いお越しで」

"グラディス"の言葉に、"スカル"は笑顔で、よっ、と手を挙げた。

「おはよーさん。"ニケ"いる?」

「今起こしてたところ」

「ははぁ、てことは、やっぱり"Z"はこっちに来てたか」

どうやら"Z"の家を訪ねてみて、留守だったのでこちらに来たらしい。どうぞ、と招き入れると、"スカル"は勝手知ったる家の中をずかずかと進んで行った。

「相変わらずだなぁ、あいつら」

「全くねぇ。おかげ様でフライパンの叩き方が上手くなる一方で」

置いておいたフライパンを手に取り、底を1回叩いてみせると、"スカル"は恐ろしい武器でも見るような目でフライパンを見下ろした。

「よく苦情が来ないな、それ」

「この程度で苦情が出るほど、このアパートの壁は薄くないってことでしょ。さーてと、もう1回叩き起こしますか」

そう言いつつ、再び"ニケ"の部屋に戻ってみると、予想どおり、2人はまた意識を手放しかけていた。可哀想だが仕方ない、"グラディス"は再度、フライパンを彼らの頭上に掲げ、がんがん叩いた。

「はいはいはい、起きて起きて!」

「おー、探したぞ、"Z"」

まだフライパンの底が鳴らされる中、"スカル"は寝ている"Z"のシャツの襟首を掴み、ぐい、と引っ張った。寝ぼけ眼の"Z"は、その力に負け、半ば抱え込むようにしていた"ニケ"からズルズルと引き剥がされた。

「今日は早いって言っといたろ。お仕事だよ、お仕事。さっさと頭シャキッとさせろ」

「……5分……」

未練がましくノロノロと掲げられた5本指を、"スカル"は無慈悲にピシリと叩いた。

「アホ、こんな状態の奴が言う"5分"が、本当に5分で済む訳なかろーが」

「ホントだって……この2日、ろくに寝てないんだよ。このままだと寝不足で死ぬ……」

「大丈夫大丈夫、死なないから。第一、てめーが寝不足じゃなかった日が、いままで何日あったよ、え?」

「……鬼……」

呻くように毒づいたが、是が非でも抵抗する、とまではいかないらしい。まだ首根っこを掴まれたまま、"Z"は渋々といった風にベッドを降りた。それとほぼ同時に、"ニケ"の方もやっと起き上がり、寝ぐせ気味の髪を掻き上げながら"スカル"の方を見た。

「ちょっと待って……仕事って"ルーサー"の依頼?だったら、今日空いてるから、あたしも行く」

「あー、いやいや、今回はお前さんの出番はないよ」

「出番の有無なんて関係ないでしょ。"Z"が行くのに、あたしを置いてってどうすんの」

「そうじゃなくて、今回は超のつく平和なお仕事ってこと。お前がついて来たところで、ただの観光旅行にしかならねぇよ。むしろ"不測の事態"に備えてお前さんは連れてくるな、って"ルーサー"の旦那からのお達しだからな」

それが悪い意味にとれたのか、"ニケ"は、無表情ながらも、右眉だけを不愉快そうに僅かに上げ、"スカル"を見上げた。

「何それ。普通は逆でしょうが」

「程度の問題でしょ。バカンスに行くのに、スリに備えてショットガン持ってくアホはいない、っつー話よ」

「ふーん。本職でも (ハジキ)使う類の人間に、そんなセリフ言われる覚えはないね」

「あのね、俺様の銃は、人間を生け捕りにするための銃であって、ぶっ殺すための銃じゃないの。お前さんとは土台が違うのよ、土台が」

あ、まずい。

と"グラディス"が思った瞬間には、"ニケ"は身を翻し、脚に巻いたホルダーからナイフをいつでも抜ける体勢になっていた。が、"スカル"の方も、ほぼ同時に銃に手を伸ばしていた。

「あー、ちょっと!止めなさいって!」

2人の間に割って入るように、"グラディス"は両腕をバッと広げた。その声を待つまでもなく、2人とも武器を手に取る寸前で動きを止めていたが、それでも間に流れる空気はおふざけにしては張り詰めていた。

「この町の住人は、大抵脛に傷持ってるような奴ばっかりでしょうが。ジョークで済まなくなるような傷は、お互い刺激しないように気をつけないと」

「"ニケ"」

それまで蚊帳の外状態だった"Z"が、唐突に呼びかけてきた。

"Z"は相変わらず、"スカル"に首根っこを掴まれた状態のままだったが、この状況にも特に表情の変化はなく、2人を止める気もなさそうだった。恐らく、両者とも武器を構えるところまでは行っても、相手に傷を負わせるところまでは絶対にやらない、という確信があるのだろう。目だけを自分の方に向けてきた"ニケ"に、"Z"は諭すでもなく、淡々と告げた。

「昨日の件、犯人が直接行動に出るかもしれないから、店の方警戒しといて。万が一接触してきたら、俺が帰るまで足止めできそうならしといて欲しい。狙われるとしたら、絶対お前の方だから」

「……」

「俺なら大丈夫。"勝利の女神"のキスがありゃ、勝ち間違いなしなんだろ?」

そう言って"Z"は、"ニケ"の方へ右手を差し出した。

まだピリピリしたムードを漂わせていた"ニケ"だったが、ある程度は彼の言葉に納得したのだろう。臨戦態勢を解き、"Z"の方に歩み寄ると、差し出された掌に、自分の掌をパン!とぶつけた。

「……"ルーサー"に会ったら、ふざけんな、って言っといて」

「ハハ……、了解」

"Z"の笑い声につられて、"ニケ"もやっと表情を和らげた。そして、少し背を屈めた彼の求めに応じて、その唇にキスをした。

―――ちょっと。喧嘩売ってんのかコラ。

再び、らしくもない罵りの声が漏れそうになる。その気配を察してか、"スカル"の表情が露骨に「あーあ、やっちまったか」という感じに変わった。

「……ったく、女神様のご利益が要るような仕事じゃねーっつってんのに」

呆れたようにため息をついた"スカル"は、再び"Z"のシャツの襟を引っ張ると、"グラディス"に満面の笑顔を向けた。

「ほんじゃあマスター、帰りに店の方に寄るから」

「ご苦労様」

自分より小柄とはいえ、成人男性1人を引っ張って行くのも苦労だろう。お気の毒に、という意味を込めて、"グラディス"は"スカル"に手を振った。

"スカル"に半ば引きずられて行く"Z"も、軽く手を挙げ、"グラディス"に挨拶した。"スカル"とは違い、笑顔もなく、非常にそっけない挨拶だったが、それでも、出会った頃に比べれば数倍マシだ。

―――にしたって、今のはないでしょ。わざと目の前でやったのが見え見えだってのよ。全く。

「……"スカル"の奴、ダーツの的にでもしてやりゃよかった」

"グラディス"が"Z"に向かって心の中で非難を浴びせるのとほぼ同時に、"ニケ"が忌々しそうに呟いた。

不貞腐れた様子で部屋を出て行く"ニケ"を見送り、"グラディス"は、嵐が去った後のように静まり返った"ニケ"の部屋の中をぐるりと見渡した。

最低限の家具、最低限の服―――装飾に至っては皆無と表現したほうがいいのかもしれない。"グラディス"の部屋とは、まるで対照的だ。無味乾燥とした部屋の中、一番目立つのが、綺麗な青色のランプが点灯している、キューブ型のパソコンだろう。他に色らしい色がない分、そこだけが別世界のように美しく見えた。

初めてこの部屋に来た時から、ほとんど変わっていない、何もかもを削ぎ落したような部屋―――まるで、この世への執着をバッサリと斬り捨てたかのように、いつ見ても空っぽだ。

あの子にとってのこの家の意味を、そのまんま表したみたいな殺風景さだ―――そう考え、"グラディス"の顔は僅かに曇った。

ああして毒づいてはいるが、実のところ、"ニケ"は"スカル"を嫌っている訳ではない。他の人間に対してなら、さっきのような場面でも、絶対に口は開かない。大抵は無視だし、本当に逆鱗に触れたのなら、無言のまま半殺しだろう。"スカル"は"Z"が信用している人間であり、自分と同じ血生臭い世界を感じさせる人間だからこそ、"ニケ"は気を許し、憎まれ口を叩くのだ。

長年、1つの家を分けあっていて、同じ店で長い時間を過ごしているのに―――自分は"スカル"の半分でも心を開いてもらえているのだろうか、と考えると、元来ポジティブな方の"グラディス"も、少々落ち込む。

―――そりゃあ、"スカル"の方が年も近いし、何より"Z"と仲がいいんだから、"ニケ"も懐きやすくて当然だけど。でもアタシの方が付き合い長いし、何より公式に認められた身元引受人だってのに、なーんか腹立つわねぇ。

「嫉妬は醜いよ、お姉様」

「ぎゃあああっ!」

突如、耳のすぐ傍で声がして、"グラディス"は思わず素っ頓狂な悲鳴をあげてしまった。

あたふたと振り返ると、いつの間にか戻って来ていた"ニケ"が、"グラディス"の耳にくっつきそうな位に顔を寄せて立っていた。"グラディス"の過剰反応が面白かったのだろう、彼が振り返った途端、"ニケ"はおかしそうに小さな笑い声を立てた。

「いつまで黄昏れてんの。まだ朝だよ」

「びびびびっくりさせないでよ、全く……!」

寿命が3日くらい縮まった気がする。バクバクとうるさい胸を押さえる"グラディス"に、"ニケ"は手にしていたグラスを差し出した。

「はい、水」

「……ありがと」

「朝っぱらから騒がせたお詫び」

グラスを渡すと、"ニケ"はそう言って、"グラディス"の横をすり抜けた。その背中を恨めしそうに睨みつつ、"グラディス"は水を一口飲んだ。

"グラディス"だって、別に好き好んで朝から怒鳴り声を上げている訳ではない。ルームシェアという居住スタイルでは、ルームメイトの許可なく他人を泊まらせるのはマナー違反だ。いくら"Z"であっても、他人に変わりはない。親しき仲にも礼儀あり、例外を作っていては、けじめがつかなくなる。

「言っとくけど、アタシが無関係な第三者だったら、あんたがどんな生活してようが一切口出しませんからね?あんたの身元引受人をやってたからこそ、年頃の娘にうるさく言う親みたいな真似もしてるのよ」

「うるさいなんて一言も言ってないよ」

"グラディス"の言葉が終わらないうちに、"ニケ"は苦笑いを含んだ声でそう呟いた。先ほどの騒動で床に落ちた枕を拾い上げ、ポンポンと叩いて形を整えながら、彼女は"グラディス"の方を振り返ると、ニッコリと笑った。

「"不幸"な環境に育った"可哀想"な青少年の育成のため云々、てやつが、実際のところは"猛獣が社会で暴れないように調教しろ"って意味なのは、あたしもよーくわかってるからね。"グラディス"は、そういうのを声高に言う連中よか数百倍マシだよ。うるさいなんてとんでもない」

「……荒れてるわねぇ」

よっぽど、先ほど聞いた"ルーサー"の話が頭に来ているのだろう。元々低かった彼女の中の"ルーサー"の株価は、今朝をもってストップ安なのかもしれない。

「"ルーサー"のセリフ、アタシは違う意味に聞こえたけどねぇ。あの2人で対処できる程度の仕事なら、"ニケ"をこの町の外に連れ出すようなリスクを冒すまでもない、って考えたんだと思うわよ。あんたを狙ってる連中から守るためにね」

「……」

「全く―――女の自覚も相当足りないけど、まだまだ安全じゃないっていう自覚も足りてないんじゃない?」

"グラディス"の指摘に、"ニケ"は珍しく、少し気まずそうな顔になった。ぷい、とそっぽを向くと、手にしていた枕をベッドの上に放り出し、"グラディス"に背を向けるようにしてベッドメイキングを始めてしまった。

―――ま、ああやって荒れたところ見せたり、拗ねたりする程度には、心を許してるってことか。

そう思ったら、先ほどの落ち込みや腹立ちが、少し和らいだ。が、今、口にしてしまった内容は、あまり後味の良いものではなかった。

まだまだ安全じゃない、と言ってはみたものの、正直、"グラディス"にも"ニケ"が今どの程度安全なのかは、正確にはわからない。彼女を狙っている類の連中は、お天道様の下に堂々と素顔を晒すことのできない人間ばかりだ。一方"グラディス"は、少しばかり趣味が偏っているだけで、基本的には極々普通の一般市民にすぎない。ようするに「住む世界が違い過ぎる」のだ。

勝利の女神("ニケ")の異名を与えられた者に、戦いはつきものだ。戦うために育てられた彼女が、「不幸な環境」などという言葉を嘲笑うのも無理はないだろう。

「……ところで、"ニケ"。この前言ってた、護身術道場の話……」

「あれなら、興味ないんで、断っといて」

最後まで言わせず、"ニケ"は背を向けたまま即答した。まあ、予想はしていたが、ここまで取り付く島がないとは―――大きな溜息をつくと、"グラディス"は"ニケ"に歩み寄り、その背中を遠慮無くバシン!と叩いた。内面はどうあれ、身体的には男だ。さすがの"ニケ"も「痛っ」と声をあげ、首を竦めた。

「1回も見学しないで、何言ってんの!あんたの腕を見込んで、有段者が直々にお願いに来てるってのに」

「……んなこと言われても、女相手のエクササイズとか……。あたしが身につけてるのはそういう類の技術じゃないし」

「あんたが身につけてる類の技術を教える場所があるとしたら、まともなのは警察か軍くらいのもんでしょーが!平和的に、かつ、人の役に立つ方面でその力を活かすんなら、今回の話は悪くないと思うわよ」

肩越しに恨めしげな目を向けた"ニケ"は、ふー、と息を吐き出すと、くるりと"グラディス"の方に向き直った。

「……あのね。あたしも暇じゃないの。店の仕事と助っ人依頼で、時間はほぼ使い果たしてるの。お嬢さん方に痴漢撃退法とか教えてる場合じゃないんだって。それとも何、店に新しいバイトでも雇う気?」

「ご冗談を。うちも楽な経営じゃないんですからね。減らすのはうちの店の仕事"以外"の仕事に決まってるでしょ」

「はぁ!?そんなの駄目に決まってんじゃん!」

「何が駄目なの。あの子には仲間もいるし、あの子自身も十分強いじゃない。なにも、女の子である"ニケ"が」

「何度も言うけど」

"グラディス"の言葉を遮り、"ニケ"はキッ、と彼を睨み据えた。

「あたしは、女である前に、"Z"の武器として生きるのが望みなの。たまたま女に生まれたからって、女限定の常識押し付けられても困るよ。"グラディス"だって、男のくせに、って言葉にカチンと来たこと、1度や2度はあるでしょうが」

思わず、言葉に詰まる。

男のくせに、男なんだから、という言葉には、昔から散々苦しめられてきた。敬虔なカトリック信者だった両親から、何度となくその言葉をぶつけられた。カチンと来ることすら出来なくなり、悪いのは「普通」でいられない自分の方だ、と責めることしか出来なくなるほど、幼い頃からずっと。

結婚して、幸せな家庭を築いている友人などを見ると、羨ましい部分も確かにある。自分にもああした人生があったのかもな、と思うこともある。けれど、無理矢理その道を歩めば、恐らくは今の数倍、不幸になっていただろう。誰にでも、向き不向きがあるのだ。

―――でも、"ニケ"……あんたの望む生き方は、アタシが知ってるどの「幸福」とも違い過ぎてるのよ。

"Z"の武器でありたい、と"ニケ"は言うが、"グラディス"に言わせれば、"ニケ"は女や武器である前に「人間」だ。己の信条のためや、大切な誰かを守るためだとしても、血を流し、切り刻むことでしか自分の生きる意味を見出せない人生は、幸福だとはどうしても思えない。

でも、それを説明したところで、"ニケ"はきっと一笑に付すだけだろう。「じゃあ"グラディス"、あんたの望む生き方は、お硬いご両親の考える"幸福"とどこまで一致してる?」という、"ニケ"の皮肉めいたセリフが聞こえてきそうだ。

「……痛いところをついてくるわねぇ」

諦めたように溜息をつくと、"グラディス"は苦笑いを浮かべ、"ニケ"の肩をポン、と叩いた。

「わかった。例の話は、断っておく。でも……そういう選択肢もあるってのだけは、覚えておいて損はないと思うわよ」

その言葉に、"ニケ"はそれ以上の反論はしてこなかった。まだ少し不服そうな、納得しきれていないような微妙な表情で、無言のまま、小さく頷いただけだった。

 

***

 

「で、夜中まで粘っただけの成果はあったのかよ」

「いや……もうちょっとのところで、逃げられた」

答えつつ、"Z"は大きく伸びをした。車の窓を全開にして存分に風を受けている筈だが、まだ頭がクリアになっていないようだ。

「ギリギリまで"ニケ"が引きつけておいてくれたおかげで、かなりいい線行ったんだけどな。サーバー15個、アカウント28個も踏み台にされちゃ、処理に時間かかって、辿り着く前に警戒されるのも無理ないぜ」

「そりゃまた随分な手間かけてんなぁ……何者だよ、そいつ」

「さあね。ただ、その位アイザックにご執心なのは確かだ」

「は?アイザック?」

突如登場した名前に、"スカル"は思わず、視線だけでなく顔まで"Z"の方に向けた。が、今は運転中だ。"Z"はあえて言葉では注意せず、"スカル"の頭を掴んで強制的に前を向かせた。

「なんだよ、アイザックって。俺らの情報が狙いなんじゃなかったのかよ」

「乗っ取り返すのは無理だったけど、ハッキングされて以降の相手の動きはモニタリングできたんで、間違いない。俺とアイザックのホットラインに割り込む方法見つけるのが目的だった筈だ」

昨晩、"ニケ"が管理しているファイルサーバーが、何者かにより攻撃を受けた。このサーバーは、"Z"が仕掛けている、言うなればトラップサーバーとも言えるもので、保管されているのは全てダミーのデータだ。"Z"曰く「攻略意欲が刺激される位の難易度」のセキュリティ設定がされていて、あえてアタックさせることで、情報を狙う連中を釣り上げようというものだ。

"ニケ"から連絡を受けた時、当然、"Z"も"スカル"も、狙われたのは対"AI ONLY"の活動に関する情報だと思った。AIの連中がハッキングを行った例はないが、企業や闇組織などで、その手の情報を探っている連中は一定数いるからだ。それが、まさかのアイザック狙いとは……完全に予想外だが、まあ、確かにあり得ない話ではない。

アイザックは現在、外部からアクセス可能ないずれのネットワークからも遮断されている。唯一、アイザックのメンテナンスを任されている"Z"だけは、専用ラインを通じて外部からコンタクトが可能だが、"Z"はハッキングにかけてはプロだ。簡単に破られるようなシステムにはしていない。

もちろん、直接アイザックに会って話をすることは可能だが、現在の彼の勤務地は警察で、その敷地から出ることも禁じられている。アイザックの暫定的な管理責任者を買って出ている"ニケ"や、"スカル"のように仕事でアイザックとつながりのある人間は別として、極普通の一般人がアイザックに会おうとすると、事前に面会許可を取り、警察内で面会をする必要がある。もし、真っ当ではない目的で彼と会いたいと考える人間がいたとしたら、面会のハードルはかなり高いだろう。

「アイザックの情報なんて、どの辺に需要があるのかさっぱりなんだが」

「そうか?あいつは、AIの中じゃイレギュラー中のイレギュラーだぜ。特に目的がなくても、ロボットマニアなら詳しい情報を知りたいと思ってもおかしくない」

「ただの興味本位で、そんな手の混んだハッキングをやるかねぇ……マニアってのは想像を越えてるぜ」

「全く……本業で徹夜した後にトラッキングで午前様とか、呪われてんな、俺」

そう言うと、"Z"はポケットをごそごそと漁り、何かを取り出した。どうやら飴のようだが、恐らくは眠気覚ましのミント系のやつだろう。普段から常時寝不足に近いので、必ず1つ2つ、ポケットに入れているのだ。

"スカル"自身、バウンティハンターを本業としている以上、徹夜は日常茶飯事だ。が、大抵はチームを組んで行動するので、長時間に及ぶ見張りなどでも交代で眠ることができる。それに比べて"Z"は、"スカル"なら1分説明を聞いただけで頭痛がしてくるような小難しい内容の仕事な上に、他に仕事を回すこともできない。扱うロボットの大半が改造ありのシロモノで、メーカー保証が受けられずに"Z"に泣きついてきている客ばかりだからだ。好きでやっている商売とはいえ、年がら年中寝不足状態の"Z"を見ていると、さすがに同情を禁じ得ない。

が、しかし。

「同情はするけど……お前、いい加減、アレはないんじゃねーの」

「え?」

「え?じゃねーだろ。マスターのことだよ。お前の気持ちもわからなくもないけど、あんまり煽るなって」

「煽る?ご冗談を」

吐き捨てるように呟き、"Z"は冷ややかな笑みを口元に浮かべた。

「俺はただ、普段通りに振る舞ってるだけだぜ。煽る気があるんなら、もっと過激な手がいくらでもあるだろ」

「……やめとけ。お前の"過激"は洒落になんねーから。つーか、お前ら、いつまで一緒に寝てんだよ。ガキの頃ならいざ知らず、今の年じゃ、下衆な勘ぐりはやめろ、って言う方が無理な話だろ」

「ハハ、やめる必要ないぜ。好きなだけ勘ぐればいいさ。騒音には慣れてるから、大人しく聞いといてやるよ」

―――ったく、このガキが。

チッ、と舌打ちすると、"スカル"は問答無用で、"Z"の頭を勢い良く平手で叩いた。

「っ、てぇっ!!」

「ヘイ、ヴィンス、お前のその賢い頭はロボット専用か?今なら寝ぼけてるだけってことにしといてやるけど、これ以上憎まれ口叩くなら、現場まで歩いて行かせるぞ」

叩かれた頭を抱え込み、"Z"は恨めしそうな顔で"スカル"の憮然とした横顔を睨んだ。が、上手い返しが思いつかなかったのか、それとも普段呼ばれることのない名前で呼ばれたことが気まずかったのか、それ以上の憎まれ口は叩かず、不貞腐れたようにシートに沈み込んだ。その様子を見て、一応話を聞く態度にはなったな、と"スカル"は大きく溜息をついた。

「もう耳にタコだろうから、お前らの間がどうなってんのかは今更訊かないでおいてやるよ。俺から見りゃ、そこいらのカップルよりよっぽど堂々と人前でいちゃついてるカップルにしか見えねーけど、それは俺の勘違いってことにしてやってもいい。"ニケ"の理想の男がアイザックのまんま1ミリも成長しなかろうが、お前が"人間の女に見向きもせず裏で理想のロボット嫁を作ってるに違いない"っていう不名誉な噂を流され続けようが、俺様には何の影響もないから、ただただ黙ってお前らの末路を見守ってやるさ」

「……よくそんだけ長いセリフを一気に喋れるな。喋りながらエラ呼吸でもしてんのか」

「でもな、"ニケ"が天涯孤独で、その身元引受人だったのがマスターである以上、"ニケ"の家族はお前じゃなくマスターなんだってことを、いい加減理解しろよ」

ツッコミを無視して"スカル"が放った言葉に、"Z"は露骨に不愉快そうな顔をした。

「元々、"ニケ"と一緒に暮らしてたのは、俺の方だぞ」

「昔の話だろうが。もう一度"ニケ"と一緒に暮らしたいんなら、結婚でも養子縁組でもして、正式な"家族"になるんだな」

「論外だね。"ニケ"は"運命共同体"だって言ってんだろ。紙切れ1枚でなれる"家族"に格下げなんて願い下げだぜ」

"運命共同体"―――"Z"は普段から、"ニケ"との関係をそう呼んでいる。

読んで字の如く「運命を共にする相手」という意味だが、その詳細は極めて曖昧、かつ感覚的だ。いわゆるソウルメイトというやつに、家族や相棒を足した感じではないか、と"スカル"は理解しているが、正しいかどうかは怪しい。

呼び名1つで、1つの関係性に固定されたくない、と"Z"は言う。同志とか友達とか恋人とか、その単語を聞いただけで「ああ、はいはい、そういう関係ね」と全部わかった気になられるのが嫌だ、と。生まれや性別にすら縛られたくない、という2人は、たとえ相手が誰かと結婚しようが、性転換しようが、全身サイボーグ化してほとんど人間ではないモノに変わろうが、"運命共同体"であり続けるのだそうだ。"スカル"に言わせれば「お前らにしか理解不可能なレベルのクレイジー」だ。

「お前なぁ……それが世間に通用すると思ってんのか?どんだけお前が理想論唱えようが、法治国家じゃ法律が最強ツールだ、って事実は曲げようがねーだろうが。ここがその法治国家である以上、世間様は、法律で認められた"家族"以外、"家族"とは認めねーんだよ」

「ハ……、"スカル"から法律なんて単語が出てくるとは、恐れ入るね」

「バカ言え、今は、"ルーサー"の旦那からの依頼以外じゃ、ちゃんと法律守ってるぞ」

今は、と無意識のうちにつけてしまうあたりが、非常に辛いところだ。それは"Z"も察しているのか、不貞腐れた顔を僅かに緩め、苦笑してみせた。

「まあ、言いたいことはわからないでもないけど、俺は別に"ニケ"がマスターとルームシェアしてんのが気に食わない訳じゃないぜ。成人した後もルームシェアしてるのは、"ニケ"自身の選択だし。マスター本人も、俺は結構嫌いじゃないしな。感性尖ってんのに、価値観がバリバリの保守派、っていうアンバランスさが、観察してて面白い」

「ほー。そんなら、あの反抗的な態度は何だ」

「別に。朝っぱらから耳元でフライパンをガンガン鳴らしてくれたお礼」

―――お前……それを"煽り"と呼ぶんだっつーの……。

普段は飄々として何事もそつなく対処していく奴なのに、この件に関してだけは、いつまで経っても5歳児レベルの幼稚さだ。こりゃまともに話を聞く気すらないってことだな、と、"スカル"は無言で肩を竦めた。

 

"Z"や"ニケ"の過去については、"スカル"もあまり多くを知らない。「過去の詮索はNG」が不文律の町では、本人の意志で自ら明かしたこと以外を知るのは難しいからだ。それでも、"ニケ"に関しては、とある事情から"スカル"にも経歴の一部が明かされている。

"ニケ"は、某国の反政府武装組織の中で育った、という、かなり特異な経歴の持ち主だ。"ニケ"本人ですら、何故そこで育つ羽目になったのかは全くわからないという。そのまま成長すれば、一流の戦士として数々の犯罪に手を染めることになっていたのだろうが、彼女が11歳の時、特殊部隊の襲撃を受け、組織は壊滅。"ニケ"は保護され、様々な施設を転々とした後、ボーダータウンの孤児院に流れ着いた、という訳だ。

"Z"と"ニケ"が出会った経緯は、定かではない。わかっているのは、"Z"はその頃からアイザックのオペレーション全般を任されていたこと、ボーダータウンの外れにある家でアイザックと「2人で」生活していたこと、そしてその家に途中から"ニケ"も住むようになったこと、の3つだけだ。

こうして出来事だけを並べれば、おかしな点はないように思える。しかし、その後に起きた出来事などから逆算してみると、"ニケ"が"Z"の家で暮らすようになったのは、彼女が12、3歳の時―――ということは、"Z"もまだ14、5歳。家主としても、アイザックレベルの高級アンドロイドのオペレーターとしても、冗談としか思えない年齢だ。

"Z"については、謎が多すぎる。"スカル"と知り合った時、"Z"はまだ18歳になる前だったが、既に彼は、仕事場兼自宅にたった1人で暮らし、ロボット達を相手に仕事をしていた。そしてそれは、"ニケ"やアイザックと一緒に暮らしていた頃も、ほとんど同じだったらしい。そう―――"Z"は、10代前半という、ほとんど子供と言っていい年齢から、今現在と大差ない生活を送ってきているのだ。確かに、"Z"の知識や技術は大したものだと思うが、いくら優秀でも子供は子供だ。何故周囲の大人は、彼を普通の子供と同じように扱わなかったのだろう?なんとも妙な話だ。

ともかく、謎は謎として、"Z"と"ニケ"、そしてアイザックは、ある一時期、一緒に暮らしていた。その時期が、"運命共同体"というやつの原点だろう。2人がアイザックを特別大切にしているのも、この時代があったからだと思う。

しかし、"ニケ"が14歳の時、そのアイザックが、とある「大事件」を起こしてしまった。

実はこの「大事件」は、一般人には公表されなかった。"スカル"も、対"AI ONLY"活動に加わるまでは、そんな出来事があったなどとは全く知らなかった。"AI ONLY"が出来て間もないあの時期に、「AIが重大犯罪を働いた」というニュースは過剰な社会不安を引き起こす、と判断されたらしい。もっとも、事件の裏に「警察の大失態」と言っていい出来事があった事実を考えると、公表を控えた本当の理由はそっちだろ、と疑いたくもなるものだ。

「大事件」を起こしたアイザックは、警察に拘束された。人間ではないアイザックには、当然、人間を対象とした刑法など適用されない。危険なアンドロイドと判断されたその時点で、問答無用で溶解処分される―――筈、だった。そうならなかったのは、"Z"と"ニケ"が、アイザックを助けようと行動を起こしたからだ。

実際のところ、同情の余地のある事件ではあったし、そもそも事件のきっかけを作ってしまったのは警察の方だ。結果、アイザックは「死刑」を免れた訳だが、その代わり、警察の専門部署で、厳重な監視下に置かれることになった。現在、アイザックが警察で働いていて、外部とのコンタクトすら禁じられているのは、この処分によるものだ。

アイザックが抜けるということは、即ち、未成年男女の二人暮らしになるということだ。さすがに良識ある大人が黙認できるラインを越えていたようで、"ニケ"は元いた孤児院に連れ戻されてしまった。これに対して、"Z"だけでなく"ルーサー"も異議を唱えたところを見ると、もしかしたら"ニケ"が"Z"の家に居候するようになったのは、孤児院側での"ニケ"の扱いが原因だったのかもしれない。そこから先は、知っての通り。"ニケ"には正式な身元引受人が充てがわれ、それが"グラディス"という訳だ。

いくら規格外な奴でも、まだ15、6歳の少年だ。仮初とはいえ、家族のように過ごしていた相手を同時に2人とも奪われた時の"Z"の気持ちを思うと、さすがに同情せざるを得ない。事件後すぐ、郊外の広い家から今住んでいる手狭な家に移ったのも、1人には広すぎる空間が嫌だったからかもしれない。

"グラディス"には、何の非もない。が、紙きれ1枚の契約で"ニケ"の正当な家族として扱われている彼を、"Z"が受け入れるのは難しいだろう。ましてや、"グラディス"が"Z"のことを「"ニケ"を普通の平穏な人生から遠ざける存在」とみなしているのは、他人である"スカル"から見ても明らかだ。邪魔者扱いされている"Z"が、5歳児レベルの状態から成長する日は、果たして来るのだろうか―――今のところ、絶望的な要素しかないが。

 

「しかしマスターも災難だな。誰も手を挙げない"ニケ"の身元引受人を、半ば押し付けられる形で引き受けたっつー話なのに、お前からこうも敵視されるとはね」

「別に敵視してる訳じゃ……それに、マスターの方も、ルームメイトが必要なのになり手がいなくて困ってる立場だったんだぜ。女は"なんで彼氏でもない男と同じ部屋に住まなきゃいけないんだ"って言うし、男は"ゲイと一緒に住めるか"って言うしな」

「容赦ねぇなあ……まあ、そう言われちまうのも仕方ねーけどよ。珍しくなくなったとはいえ、マイノリティなことに変わりはないし」

「あの人の場合、いっそ外見も女になっちまえば楽だろうけどな」

確かに、"Z"の言うとおりだろう。"グラディス"を見ていると、ゲイだ何だという前に「中身が女」だと感じる。正確な医学的な分類がどうなるのかはわからないが、中身と生物学上の性が一致していない、というやつに近いような気がする。外見も女になれば、周囲からも女性として扱われるようになり、今よりはかなり生きやすくなる筈だ。

「確かになぁ……。でも、信仰上の理由で手術はアウトなんだっけ?そこまでしなくても、服装とか髪型とか、色々やりようがある気するけど―――とは言え、それもなんだかなぁ。中身は同じマスターなのに、外見変えたら態度変わるってのもよ」

"スカル"がそう言うと、"Z"は何故か、可笑しそうに笑った。

「ハハ……"スカル"が今それ言うと、盛大なブーメランになるけど、いい訳?」

「ブーメラン?」

「どっかの誰かが、今頃、マスターの店で噂してるんじゃない?"スカル"が絶世の金髪美女とデートしてた、って」

思わず、ハンドル操作を誤った。

車線を若干オーバーしたところで、"スカル"は慌てて体勢を整え、早口に"Z"に向かってまくしたてた。

「あ……アホかっ!!あれはデートじゃねーっつーの!!直々にお礼がしたいから、って、お前んとこにも連絡あっただろうがっ!お前が仕事入ってて無理だって言うから、俺1人でブロンディの市内観光に付き合ってやったんじゃねーか!わざわざ飛行機代かけて来てくれたからには、追い返すわけにも」

「じゃあ訊くけど、もしクラウディアがアイザックみたいな外見だったら、わざわざ出かけたか?お礼は気持ちだけで結構です、ってなったんじゃねーの」

遮るようにツッコミを入れられ、ぐ、と言葉に詰まる。確かに―――もしブロンディが金属むき出しの性別不詳なアンドロイドだったら、"Z"の言うとおりの対応を取っていたかもしれない。もちろん、お嬢様という付属品も理由の1つではあるが、相手が人間そっくりの人工皮膚を纏っていて、しかも自分好みの美人だったからこそ、都合丸1日の観光に付き合ってしまったのだ。

「……言っとくけど、スゲー大変だったんだぞ。お嬢様のリクエストで訳わからん絶叫マシンに乗る羽目になるわ、ブロンディをナンパしようとするアホに絡まれるわで」

「ふーん、楽しかったようで何より。ガールフレンド達にも同じこと切々と訴えてみろよ。ボコボコにされるから」

ガールフレンド―――何人かの顔が、脳裏に浮かぶ。が、誰が相手でもボコボコにされる未来しか見えなかったので、絶対にこの件は黙っておこう、と"スカル"は密かに決心したのだった。

 

***

 

「いやぁ、それがさ。オレも見たことがないような、スゲー美人だったんだよ。しかもスタイル抜群の金髪ときたぜ。さすがに目を疑ったね」

「へーえ、あの"スカル"がねぇ」

目の前の客の話に相槌を打ちつつ、そういえば割と最近、誰かから金髪美人の話を聞いた気がするな、と"グラディス"は思った。

酒場の書き入れ時は、なんといっても日が沈んだ後の時間帯だ。まだ日の高いこの時間帯は、マスター自らがこうして客の与太話に付き合っていても問題ない。が、目の前にいるこのカークという名の客は、正直、あまり歓迎できない客だ。というのも、ここ1ヶ月ほど、週に3日はやってきて、ジントニック1杯で1時間以上雑談を繰り広げるからだ。

「しかも、なんとガキまで連れてたんだぜ。アンティークドールみたいなドレス着た、浮世離れした女の子でよ。3人で遊園地回ってる様子なんざ、ちょっとした親子連れだったぜ」

―――なんか、子供の話も聞いた気がするわねぇ……。誰から聞いたんだったかしら。

と"グラディス"が考えるのとほぼ同時に、カウンターを拭きながら今の話を聞いていたらしい"ニケ"が、笑いを堪えきれずに吹き出した。

あ、まずい、と咄嗟に思ったが、後の祭りだ。案の定、カークは、"ニケ"が自分の話に反応を示したことに気づき、露骨に目を輝かせた。

「おっ、なになに、なんか心当たりとかある?」

「ん?あー、あるにはあるけど、どうしよっかな」

「なんだよ、教えろよ。オレと"スカル"は、一緒に賞金首を挙げたことのある仲だぜ。オレに知られて困ることもないだろ?」

などと言っているが、この男、"スカル"と組んでバウンティハンターをしていたのは"スカル"がこの町に来る前のことで、今は別の商売に乗り換えている。仕事の都合でこの町に引っ越してきた際、ここで"スカル"と再会を祝して酒を酌み交わしたのは本当だが、その後、一緒に飲んでいる姿を見た覚えもないのだから、どれだけ親しいのかは怪しいところだ。

「そうだなぁ……教えてもいいけど、ジントニック1杯じゃ割に合わないかな」

まだ笑いを噛み殺しつつ、"ニケ"が意味ありげにそう言うと、カークはハッとしたような顔になり、慌ててバーテンダーのナイルの方に、わざとらしい笑顔を向けた。

「バ、バーテンダーさん、ジントニックもうい……」

「ナイル、お客様は仕事の途中だから、ジンジャエール1杯にチェンジで」

カークの言葉を遮り、そうナイルに告げた"グラディス"は、面食らった様子のカークに向かって、ニッコリと微笑んだ。

「外回りの合間に一休みは結構だけど、業務中にジントニック2杯は、お客さんの場合、身を滅ぼしますよ。初めてうちに来た時、"スカル"に張り合って注文されたウォッカを3分の1も飲まずにダウンしてたところ見ると、お酒は強い方じゃないんでしょう?1杯にしとかないと、間違いなく顔に出ますよ」

店での"グラディス"は、女言葉は一切使わない。別に隠している訳ではなく、仕事モードだと自然と出てこなくなるだけだ。仕事での口調は、物腰柔らかな丁寧語、といったところだろうか。素のままの口調だと、ナイル曰く「酒場のマスターってより、レストランの支配人ですよ、それ」らしいので、これでもかなり崩している。

この口調が、喧嘩の仲裁などに、時々役立つ。荒くれ者の客も少なくないが、この口調でやんわりと窘められると、喧嘩腰がヘナヘナと砕けて、やる気が削がれるらしい。事実、カークの勢いも、一瞬で削がれた。

「ジンジャエールでよろしいですか?お客さん」

苦笑いしながらナイルがそう訊ねると、カークは気まずそうな顔で「じゃあ、それで」と小声で答えた。

「種明かしは、それ飲み終わってからね」

満足気にニッと笑うと、"ニケ"はそう言い残して、他のテーブルを拭きに行ってしまった。

―――"ニケ"も逞しくなったもんよねぇ。

"ニケ"目当てで通ってきているのがバレバレなので警戒していたが、この分なら心配する必要もないな、と"グラディス"はホッとした。

 

この店は、名前を「BAR GLADYS」という。その名のとおり、"グラディス"の店だが、最初から彼の店だった訳ではない。

元々"グラディス"は、この店のバーテンダーだった。先代のマスター兼オーナーは、彼がこの町に流れ着いた頃に助けてくれた、いわば恩人だ。"ニケ"の身元引受人になる少し前、その先代が病死し、この店を彼に託してくれた。彼が"グラディス"というニックネームを密かに名乗るようになったのも、その時からだ。恩人の苗字であり、託された店の名前であり、そして何より、場合によっては女性の名前としてもつけられる名前なので、今では本名よりこちらの方が気に入っている。

先代は、いわゆる「情報屋」の連中と非常に親しかった。そのため、この店は情報屋のたまり場と化しており、自然、彼らに用のある人間もこの店の常連となっている。価値ある情報、というものは、それを知られたらまずい人間がいてこそ価値が生まれる―――ということは、当然、情報が売られるのを阻止しようとする人間も、この店の周辺をうろつくことになる。そうした事情から、この店では、少々血生臭いトラブルが起きることもしばしばだ。

客の中には"スカル"のように腕に覚えのある人間も少なくないが、当然、そうした世界とは無縁の客も多い。無関係な一般客の安全を守るため、事が起こる前にその種の人間の存在を察知し、危険を排除するのが、"ニケ"の、主な役割だ。まあ、言うなれば用心棒のようなものだろう。

そうは言っても、年がら年中揉め事が起きている訳ではなく、1年の大半は平穏な日常だ。そういう時の"ニケ"の仕事は、一般的なウェイターと何ら変わらない。客の注文を聞き、運び、片付ける、極々普通の客商売だ。

高校卒業後、この仕事を始めて間もない頃は、酔っぱらい親父の下ネタにまで武器を持ち出していた"ニケ"だが、今では下心のある客のあしらいにも随分慣れた。相変わらず頼もしい用心棒なのは間違いないが、彼女目当ての男性客もチラホラ出現するのだから、この店の"看板娘"と言ってもいいのかもしれない。

 

「はい、お待たせ……」

ナイルがジンジャエールのグラスを差し出すが早いか、カークはそれを奪い取るような勢いで受け取り、即座に一気飲みした。ナイルは唖然とし、"グラディス"も思わず「落ち着け」と言いそうになったが、それを実際に口に出すより先に、グラスの中身は空っぽになっていた。

「よし!飲み終わったぞ!おい、"ニケ"!早く教えてくれよ!」

「……」

どうせ、"スカル"が誰と一緒に歩いてようが、本当はどうでもいいくせに―――普段全く相手をしてくれない"ニケ"が珍しく反応を示したので、直接話をするこのチャンスを逃したくなくて必死なのだろう。これが可愛い女の子であったなら「いじらしい」と思えるのだが、いかんせん、無精髭を生やしたいかつい大男では「必死過ぎてみっともない」としか思えない。

それでも、一旦は約束したことを反故にするつもりはないらしく、"ニケ"は軽く溜息をつき、カウンターの方に戻って来た。そして、ぽい、とダスターをカウンターの上に放り出すと、腰に手を当てて彼の方に向き直った。

「ねえ、カーク。その金髪美女、すぐ近くで見た?それとも遠くから?」

「へっ?」

予想外な部分にツッコミが入り、カークはキョトンと目を丸くした。

「そりゃあ、遠くからに決まってんだろうが。近くだったら、ヤツにバレちまうよ。反対側の道を前から歩いて来るのを見つけたんだから、最低7、8メートルは離れてたんじゃねぇかな」

「はーん……なるほどね、それで見えなかった訳だ」

「?何が?」

「マーカー。彼女の場合、首の後ろにあった筈なんだけど」

"ニケ"が、首の後ろ辺りを指さす。この時点で、"グラディス"はいつ、どこで金髪美女や子供の話を聞いたのかを思い出したが、肝心のカークの方は話がさっぱり見えないらしく、まだポカンとしたままでいた。恐らく、この手の知識が皆無なのだろう。それを察して、"ニケ"は諦めたように苦笑した。

「あのね、マーカーってのは、ヒューマノイド―――人工皮膚纏った人間そっくりのアンドロイドに、必ず目で見える場所に設けることが義務付けられてるもんなの。それ見れば、製造番号やメーカー、型式が一発でわかるようにね。大抵はバイタルゲージを兼ねてて、首の後ろとか手の甲なんかにつけるケースが多いかな」

「……は?てことは、まさか……」

「そ。あの金髪美女は、人間じゃなく、ヒューマノイド。一緒にいた女の子は、多分そのヒューマノイドのご主人様じゃないかな」

そうだ。先月、"ニケ"から何かを受け取るために"スカル"がこの店に立ち寄った際、"ニケ"にそんな話をしていたのだ。金持ちのお嬢様からの依頼で、鋼鉄製の金髪美人を救出しに行くのだ、と。

"Z"や"スカル"が絡む仕事は、あまり一般人には公に出来ない案件が多いらしいので、日頃から耳に入っても極力聞かないようにし、もし聞いてしまってもすぐ忘れるようにしている。が、その時の話は、人間がロボットを助けに行くなんて妙な話もあるものだ、と首を傾げたので、なんとなく印象に残っていたようだ。

「マジかよ……どっからどう見ても、人間そのものだったぞ?」

「最高ランクなら、近くで見ても見分けがつかない位だから、無理もないと思うよ。実際、過去にはそれが原因でトラブルになったり、犯罪に悪用されたり、ってこともあったからこそ、マーカーが義務付けられたんだし」

「詳しいなぁ。そんな難しいネタ、こういう店の従業員から教わるなんて思わなかったぞ」

カークは感心した様子だが、実際のところ、今の話はそこまで難しいネタではない。一般人でも知っているレベルで、単にこの男がロボット関連に興味がないから知らなかっただけだ。とは言え、"ニケ"がロボットについて一般人より詳しいのも事実だろう。門前の小僧はなんとやら、"ニケ"には"Z"という「先生」がいるし、何よりアイザックがいるのだから。

「まあ、そんな訳だから。仕事関係らしいし、あんまり言いふらさない方がいいんじゃない?」

「ふーん……なんだよ、あいつにしちゃあ珍しく大物釣り上げたと思ったのに、ロボットかよ。ま、あんだけ人間そっくりで、しかもあのレベルの美女となりゃあ、ロボットでも羨ましい限りだけど……」

少々がっかりした口調でそう言うと、カークは意味深な視線を"ニケ"に向けた。

「オレとしちゃあ、黒髪美人の方がいいなぁ。特に、こういう店で用心棒なんかやってそうな、スレンダーな東洋系ハーフが」

「さすが保険屋、勧誘トークが上手いね。保険は間に合ってるんで、他当たって」

淡々とそう言い放つと、"ニケ"はまたダスターを手にテーブル拭きに戻ってしまった。お見事、と言いたくなるほど、一切隙を見せない対応だ。

「違うって!保険を勧めてるんじゃなくて、デートに誘ってるんだって!VRシネマにスゲーのが来てるって話だぜ!"スカル"から聞いてんだよ、お前、宇宙大戦モノとか好きなんだろ!?」

「お客さん、そろそろ1時間ですよー。大丈夫なんスか、営業は」

まだ諦めようとしないカークに、ナイルが大声で横槍を入れるが、それは単に火に油を注いだだけだった。

「いーや、仕事なんか行ってる場合じゃねぇっ!なんだよ、"スカル"も"ニケ"はやめとけって言うし、マスターもバーテンダーも足しげく通ってる客にちっとも協力してくれないしよ!お前も酒出す店の女なら、お得意様にちょっと位サービスしたっていいだろうが!」

頭のどこかで、ぷちん、と血管が切れる音がした。

ヒートアップするカークの肩に手を置いた"グラディス"は、強引に自分の方を振り向かせ、ずいっ、と身を乗り出した。そして、営業用の満面の笑みのまま、低い声で告げた。

「アタシの店は、風俗店じゃないのよ。女漁りなら、他でやってくれる?」

「…………」

視界外から、「マスター、普段用の人格が出ちゃってますよ……」というカークの微かな声が聞こえた。完璧な笑顔を保っている自信はあるが、多分、隠しきれていない目の下のクマに加えて、額には血管が2つ3つ浮いているだろう。我ながら恐ろしい光景だ。

カークにとっても、恐ろしい光景だったのだろう。顔面蒼白になったカークは、"グラディス"から目を離すことなく、上着の内ポケットから財布を引っ張りだし、ジントニックとジンジャエールの代金より僅かに多い金をカウンターの上に置いた。そして、やはり視線はそのままで、後ろ歩きで店を出て行った。

「後ろ歩き上手いね、あいつ」

ドアが閉まると同時に、テーブル席から今の光景を眺めていた"ニケ"が、淡々とした口調でそう感想を述べた。確かに、上手かった。特に後ろを一切見ないでドアを開け閉めした辺りは見事だった。しかし、馬鹿にされたのはこの店だけでなく"ニケ"本人もなのだから、他にもっと言うべきことがあるだろうに―――他人事のような彼女の口ぶりに、"グラディス"だけでなくナイルも思わず吹き出した。

 

カークと入れ替わるように、また別の客が入ってきたので、カークの件はそのまま立ち消えとなった。

―――まあ、カークが必死になるのも、無理はないかもしれないけどねぇ……。

にこやかに客の注文を聞いている"ニケ"を眺め、ふとそんなことを思う。

身内の欲目もあるだろうが、実際、"ニケ"は綺麗だと思う。それに、生粋の東洋人とは違う目鼻立ちに、ハーフとは思えない漆黒の髪は、雑多な人種が入り混じったこの町でも珍しく、なんとなくミステリアスだ。"ニケ"より美しい女性は大勢いるが、似たタイプはあまりいないだろう。他を当たれ、と言われて、おいそれとは諦められないのも仕方ないのかもしれない。

初めて会った頃の"ニケ"は、手足が長く、棒きれのように細くて、まるで男の子だった。あの頃に比べると、随分と女らしくなったものだ、と感慨深いものがある。

―――そう言えば、最初に面会室で"Z"と並んで座ってた時、褐色の肌に銀髪の"Z"と、真っ白な肌に黒髪の"ニケ"で、配色入れ替えた兄弟みたいに見えたわねぇ。女の子って聞いてたのに、女の子が見当たらなくて困惑したっけ。

一瞬、思い出に浸りそうになったところに、また入り口のドアが開いた。

「いらっしゃい―――…」

頭を仕事モードに戻し、声をかけようとした。が、入ってきた客の姿を見て、その声は途中で止まった。

さも当然のように、カウンター前をズカズカと通り過ぎ、店の一番奥の席に座ったその客は、体に合わないダブダブの長いコートを羽織っていた。袖など、やっと指先が見えるほどの長さだ。それもそのはず、その客の見た目は、せいぜい14歳か15歳―――ちょうど今、"グラディス"が思い出していた、あの出会ったばかりの頃の"Z"や"ニケ"と同じ位の年頃だったのだから。

そこいらのアイスクリームショップならわかるが、ここは一応酒を出す店だ。たまに未成年を連れてくる客もいることはいるが、未成年が1人で来るような店ではない。後で大人の同伴者が来る可能性もあるが、一言注意をしておいた方がいいか―――と思った矢先、"ニケ"が少年のところへ注文を聞きに行った。

「マスター、あの子……」

ナイルも気になったらしく、どうすべきか、と小声で訊ねてきたが、ひとまず様子を見よう、と目線で答えた。

"ニケ"と少年のやりとりは、BGMにかき消されてカウンターからでは聞こえない。珍しく"ニケ"が注文を取る時に伝票を書いているのが気になった位で、特に不審な点は見当たらなかった。少年の方は、なんだか窓の外を気にしている様子ではあるが、極普通にオーダーを伝えているようだ。

ほどなく、いつもどおりの顔で戻って来た"ニケ"は、手にしていた伝票を"グラディス"の方に突きつけた。

「6番テーブル、アメリカン1つで」

「……」

それは、確かに伝票だが、書かれていたのは注文ではなかった。

 

『あの客、マーカーをわざわざ隠してる。"Z"に連絡してくる。傍受の危険あるから家の電話借りるね』

 

「……え……」

―――マーカーを隠してる?

「……って、えっ!!?」

素っ頓狂な声が出そうになったが、危ういところで、"ニケ"が唇の前に人差し指を立ててみせた。慌てて"グラディス"が言葉を飲み込むと、"ニケ"はニッと笑い、伝票をぐしゃりと握りつぶした。

「じゃ、大急ぎで買ってきまーす」

「あ……は、はい、いってらっしゃい」

どうやら、自宅に戻って連絡をする口実として、足りない物を何か買いに行く、という話にしているらしい。家はすぐ隣だから、そう長くはかからない筈だ。慣れない事態にドギマギしつつ、"グラディス"は"ニケ"を見送った。

―――そ……それにしても……。

ドアが閉まると同時に、例の少年の様子を窺ってみたが、特に異変は見られないようだ。相変わらず、時々チラチラと窓の外を気にする素振りを見せつつ、大人しく席に座っている。その様子は、どこから見ても、その辺にいる15歳位の少年だ。

―――あれが、ヒューマノイドだなんて。

「……ロボットって、コーヒー飲めるんスかね」

そう耳打ちするナイルに、さっき"ニケ"がやったように、人差し指を立てた。人間なら聞こえないほどの小声であっても、彼には聞こえる可能性があるのだ。ナイルもそのことに気づき、慌てて口をつぐんだ。

自慢ではないが、ロボットとは縁のない生活を送ってきた"グラディス"には、ロボットがコーヒーを飲めるかどうか、全く判断がつかない。が、注文は注文だ。相手が何者であろうが、受けるしかない。

早く、"ニケ"が帰ってきてくれないだろうか―――ひたすらそう願いつつ、"グラディス"はロボットのため、アメリカンコーヒーの用意を始めた。

 

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